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14th Mar. 2016 Vienna performance note

投稿日:03/14/2016 更新日:

    Arrival in Vienna
In November 2015, I successfully completed three concerts in Vienna that had been planned for two years.
The venue was different from the Embassy of Japan Cultural Center, University of Vienna (sponsored by the Department of Japaneseology), and Buddhist Center (sponsored by the Philosophy Department of the University of Vienna).
”Arrived on the evening of the 2nd, contacted Noriko Brandle, who was indebted to me, and then went to the venue for the next day. However, it is the Japanese embassy that is not enough to walk. Facing the street, the entrance to the Cultural Center. As soon as we arrived, the dinner was a rice ball bought at Narita, a staple of recent overseas trips. Although saltiness is reduced, it is enough for the belly that has been trapped in the plane for a long time and is reversed day and night. German-speaking hotels do not have pots in their rooms, so bring a few tea bottles of tea and buy gas-free water locally. I will stay for a whole week, so I will buy unlimited tickets on the bus, subway and tram. There is no ticket check for a stable society with high mutual trust.

Day 2
The next day, take a tram for 30 minutes and head to Heiligenstadt, famous for Beethoven's writing of his will.

閑静な郊外の住宅地といった趣の駅前からさらにバスに乗る。お目当てのバス停で降りると、街はさらに静かになり、道を聞こうにも人がいない。この辺りでベートーベンは何度か転居を繰り返しながら、交響曲三番『英雄』を書き、散歩しつつ六番『田園』の楽想を練った。難聴に絶望して遺書を書いた家(今は博物館になっている)には先客が一組。世田谷区の小学生の団体だ。聞けばここハイリゲンシュタット市と世田谷区は姉妹都市で、何年かに一度同地を訪れているという。かなり離れたところの広い道に停車していた、彼らのバスの運転手がいてくれたおかげで、道を聞くことができた。部屋の一角にある受付で入場料を払うと、狭い二部屋くらいのスペースは人でいっぱいだった。現地在住とおぼしき日本人女性ガイドに小学生の演奏許可を求められ、快諾して、スペリオパイプによる『エーデルワイス』を聞く。ガイドさんに「私も吹きに来たんですよ」と言ったら、墺日協会の会報を通してご存知だった。彼らが去って誰もいなくなり、併設のヘッドホンでゆったりベートーベンを聴く。
そこから少し歩いて、有名な『田園』の散歩道へ。せせらぎを左に、なだらかな土の狭い道を上ると、右手の住宅地が段々迫ってきて逆V字型に合流し、一本の広い舗装道路になった。その角を往時ベートーベンが歩いた通りに左に折れ、木々の間を尚も往く。こんな風にしばらく散策してから、しばらく歩いて、バスを見つけて街中に戻った。この年の六月には、ベルリンで交通機関の煩雑さに散々悩まされたのとえらい違いだ。もちろん、街のサイズもだいぶ違うが、ベルリンでは、国は一つになったものの、東西各々の交通網は別のまま残されたという。笑ってしまったのは、高架を走る(つまり外の景色が見える)地下鉄で何駅か乗ったとき、何の前触れもなく、その電車がそのまま逆走し始めたことだ(つまり「次の駅」は「さっきの駅」だ)。これは漫画のような極端な例だが、異なる交通機関同士の接続や連携がないので、道を聞いても、行き着くのが難しい。地元の人もこの間の事情は弁えているようで、教え方も「こちらの心配をしいしい」、「やや諦めの気配を漂わせているよう」に見えたのは、こちらの考え過ぎばかりではないように思う。
地下鉄の駅のホームで会った、アメリカ人だという一人旅のおばちゃんなど、えらく憤慨していた。(同じ旅行者ということで目をつけられたのだろうが)最初に彼女の舌禍に遭った小生は、聞いているふりをしながら段々目線を逸らせて、横に居る家内に話が向かうよう(さりげなく)仕向けて難を逃れた。旅先でしばしば使う得意の手だ。おばちゃんは、わが家内もあまり聴く気がないと察するや、なお諦めずに、相手を変え、誰彼構わず車内の人に訴えていた。無邪気に?怒っても事態は変わるわけではない。それに、「そもそもドイツをこのような境遇に置かしめた責任の一端は、東西冷戦の一方の当事者である米国にもある。よって、その国民であるおばちゃんが一方的に被害者ズラして文句を言えた義理ではなかろう」とも考えたが、そんなことはいちいち言わない。因みに、概して「そんなことをいちいち言う」のが西洋白人社会の流儀(だというのが、筆者の見立て)。よって、はなはだしい場合は、言えない人間は、低能か、お人よしの甘ちゃんのように見なされる。このようなロゴスに立脚した言語が先行する社会は、われわれ日本人には面倒臭く、疲れる社会だ。何も言わなくても結構察してくれて、いろいろやってくれる日本の居心地はとてもよい。また、ベルリン市の名誉のために言っておくと、かの地の具合が悪いのは交通網だけで、街自体はため息が出るほど美しい。人々も普通に親切で、聞けばたいてい応えてくれる。食事も大都会ゆえ、東京のように選り取り見取りだ。また、あるデパートのレイアウトの洒脱さは、東京のそれを遥かに凌ぐ。
さて、この日は演奏がないので、その後、たっぷりクリムトなどの美術館をいくつかハシゴし、さらに暗くなりかかってから、モーツアルトが『フィガロの結婚』などを書いた住まいも訪ねた。有名な聖シュテファン教会の少し奥で、ここは当時も今も繁華街だ。モーツアルトは父と離れて故郷ザルツブルグから移住して演奏家として大成功し、この(今で言うビル風の)かなりの邸宅に住んだ。専用の出入り口のあるゲスト・ルームやビリヤード台の辺りは、いつも多くの人で賑わい、とても騒々しかったにも拘らず、天才はジャンジャン曲を作っていたという。映画『アマデウス』にもあったが、ギャンブル好きの彼はいつも借金に追われていたそうだ。   

    三日目
十一月四日の水曜は、午後六時半より日本大使館文化センターで最初の演奏会を行った。プログラムは以下の通り。

1.五夜お月さん(童謡唱歌)野口雨情作詞、本居長世作曲
2.古城(流行歌) 高橋掬太郎作詞、細川潤一作曲
3.新相馬節    福島県民謡
4.伊予恋慕    愛媛
5.布袋軒鈴慕  宮城
6.手向       三重

いつもはさほど人が集まらないそうだが、今回は「実演」と言うこともあり、早々に締め切って、だいぶ断ったという。「堅さの権化」のような大使館のこととて、事前のチェックや当日の厳重警備は仕方がないところか。写真撮影も、予めのカメラマン以外は許可されなかった。
ここでは、解説つきのプリントが配られていたので、予定通り吹く。最初の俗曲三曲は、かなり飴色になっている琴古の調律八寸古管で。出だしの二曲のキー(始まりの音)を間違えないように神経を使う。最初は自分でも緊張しているのが分かった。日ごろ地なし管ばかり吹いているせいもあったろうか。「新相馬節」あたりから鳴ってきて、硬質の床材がかなり反響するのもわかったので少し息を抑える。もちろん間奏部は、気の向くまま、バリバリとアドリブで吹く。
本曲に入って、「伊予恋慕」は最近入手した地なし古管で。以前なら見向きもしなかったような細い竹だが、あまりに音色が良いので、最近はもっぱらこれを使う(名器「虎月」は海外には持って出ない)。この竹には「安永元年」とある。その飴色の様子から、この年代は信ずるに足るのではないか。同年は、元々は「明和」といわれ、その九年目だった。災害が多く、それが「めいわく(明和九)」からくるとされて、験をかついで「安永」に変更になった。西暦では一七七ニ年。モーツアルトは十六歳、ベートーベンはニ歳の時の作だ。二百年をはるかに超えるその枯淡の音色は、細さを割り引きしても、充分おつりがくるような、自然でまろやかな音色だ。
最後の二曲は、故藤田正治先生のニ尺ニ寸で吹く。思い起こせば、虚無研最初の「献奏会」は、スッタモンダしたように記憶するが、筆者はその時の演奏を聴いてかなり失望して帰った。音楽的な意味での演奏の巧拙は、「求道」の「吹禅」として問わないとしても、長さの異なる(よって律もはなはだ異なる)竹で連管しているのを聴かされたのには参った。外がすっかり暗くなってから乗った帰りのバスで、お会いしたのが藤田師だった。上記の私見を(たぶん嬉しそうに)聞いておられた師は、その後折に触れてご連絡を下さり、拙宅にもしばしばおいでくださった。師の竹は、概して極太で孔も大きいので体力がいるが、音味はすばらしい。小生もご存命中何度も山口県光市のお宅にお邪魔して、ズラリ並んでいる竹を片っ端から吹かせていただき、これはと思うものをバット・ケースいっぱい担いで帰ってきた。折に触れて幾許かのまとまった額はお渡ししていたのだが、どれがいくらというようなビジネス・ライクな付き合いではなかったのは嬉しい限りだった。
さて、この夜の予定では、演奏後パーティが予定されていたが、ブランドル紀子さんの誕生日の食事会に呼んでいただいたため、取りやめになった。運河沿いの地下鉄の駅で降りてから、歩いて向かった日本食レストランに集まったドイツ人は、みな半端ではない日本びいき。医師で居合い道の師範をやっている人、仏教を研究している人等と話しが弾む。英語で送っておいたレジメの「祖堂集」を「曹洞宗」と混同された誤解をこの場で解く。これは知っているが故の誤りと言えよう。ホロ酔い気分で、心地よく帰路についた。

    四日目
この日も演奏があるため、午前中に軽くショッピング。娘に頼まれたスワロフスキーやプラダのブランド品を買う家内に付き合った。六月のベルリンではトランクが壊れて、詫び状にチップを添えて部屋に置いてきた。代わりにヨーロッパでしか手に入らない新しいのを免税でゲットしたので、味をしめて、今回も(壊れてはいないものの)古くなったのを置いて新品を買おうと、デパートを何軒か下見。紫色の憧れ?の「リモア」に目を付けて早めにホテルへ戻る。途中、日本から頼んであった国立歌劇場のオペラのチケットを受け取り、建物内のカフェでグラシュ・スープを飲む。ハンガリー名物のこの牛肉のスープは、四十年以上前ザルツブルグにいたとき毎日のように飲んでいた懐かしい味だ。パンがつくので、それにサラダで夕食は十分。一緒に頼んだ生の絞りたてのオレンジ・ジュースが絶品だった。周りはほとんど今夜のバレーを見る客で、盛装もチラホラ。歌劇場に直結する別の入り口からもお客さんが入ってきた。
 この夜は、午後六時半よりウィーン大学日本学科主催の演奏会。
予定していた曲目は以下の通り。パワー・ポイントを使い、講義を兼ねてということで、いろいろ考え、全国の本曲が俯瞰一望できるような内容にしておいたのだが・・・。

1.呼笛・応笛
2.博多一朝軒伝 些志
3.興国寺伝 下がり葉
4.根笹派錦風流伝 流し鈴慕
5.明暗真法流伝 鶴の巣籠   

 日本でのメールを通しての打ち合わせが二転三転し、結局、今回の幹事役でもあったブランドル紀子博士のドイツ語説明の後、自分で(英語で)好きなようにトークしながら進行することになった。この手のやり方は、一九八〇年代のアメリカで散々やってきたので不安はない。
「肩の凝らない内容で」とのリクエストがあり、また当日初めに挨拶してくださった日本学研究のレンハルト名誉教授の研究室で着替えさせてもらった折に、美空ひばりや都はるみのテープなどが置いてあったことから、一気に内容変更。「流し鈴慕」を虚無僧スタイルで会場を廻りながら吹いた後、袈裟を脱ぎ捨て、演歌「さざんかの宿」やビートルズ「イエスタデイ」を吹く。どちらも名曲で、かつ尺八にも合う。前の日の演奏を聴いて今日も来てくれた人が何人か。また、現地でピアノ留学している日本人の若い学生さんも来てくれた。
帰路、真っ暗でだだっ広い大学構内からの帰り道を、くどいほど念を押してくれた紀子さんと別れて、結局迷った。正門の方まで戻れれば、ホテルはその目の前のはずなのだが・・・。何とか大きな道に出て、ジョギングする娘さんに聞いたら、まっすぐ一本道だった。ホテルのレストランで軽く一杯ひっかけ、階段で二階の部屋へ。貴族の館を改造したこのホテルの壁にかかっていたのは、思った通りルーベンスだった。
 結局、「真法流鶴の巣籠」は吹かなかった。これは他地域の巣籠とはまた違った面白い拍節物で、暗譜して独奏会でも吹いているのだが、とにかく長い。有名な(定番の)「鶴之巣籠」は、起承転結がはっきりしていてわかりやすく、音楽としても完結しているように思うのだが、真法流や奥州系のものは、多少省略して再構成したほうがよいかもしれない。このようなことに初めて思い至ったのも、今回の収穫といえよう。また、尺八一管でワン・ステージもたせるためには、さまざまなレパートリーを取り入れる必要もあろう。これに関して、ヒントになりそうなことがあった。
 早朝、現地のテレビでオーストリー各地の天気予報をやっているのだが、その折、必ずチロル地方特有の二本の金管楽器でハモる民謡が流れていた。二管によるこのやり方は尺八にも使えると思った。ただし、(帰国後の)十一月二十四日、カナダなどから来た外国人にレッスンをつけるため昔の譜面を整理していたら、すでにこの方式で何曲分もアレンジしてあった。決して忘れていたわけではないのだが・・・。

   五日目
十一月六日は、世界最高の音響といわれるムジークフェライン・ホールの下見にゆく。この夜、ここでウイーン交響楽団(指揮は日本のN響の常任だったシャルル・デュトワ)の演奏会がある。念のため、地下鉄の駅から会場までの場所を確認しておこうと思ったのだが、大きな駅で出口がいくつもあり、地上の道も放射状になっていることから、迷いに迷った。わかってしまえば、先日誕生会でご馳走になった日本食レストランも、歌劇場のある街の中心部もさほど遠くない。目の前が建築家オットー・ヴァーグナー作の、この世のものとも思えない程幻想的で美しい地下鉄駅の入り口で、実は、この前も何度往ったり来たりしていた。
午後はお忙しい中、美術史で現地の博士号をとったブランドル紀子さんのご好意に甘え、世界に冠たる「美術史美術館」で落ち合って、解説してもらった。「ブリューゲルは子どもを描くのが苦手で、大人を小さく描いて済ませている」こと、「聖母マリアの衣の色には意味がある」ことなど、たくさんご教示いただいた。ルーカス・クラナッハの絵等に四十年ぶりに再会して、いつまでもここにいたい気分だった。
夜、背広に着替えてホールに向かう。前半のプロコフィエフは、曲に対する馴染みがあまりなかったこともあって、印象が薄かった。(個人的には)コンサートの前半に、しばしばこんな感じになる。ひょっとしてオーケストラという緻密な有機体は、時にエンジンが掛かるのに時間がかかるのかもしれない。後半のドビュッシー(『牧神の午後』)とムソルグスキー(『展覧会の絵』)は、掛け値なしに素晴らしかった。オケの熱演に応えて、ホールも一緒に呼吸しているようだった。
このコンサートは、もともと若者啓蒙のために廉価に設定されていて、成人も余分に払えば入れてくれた。聴衆は中高年ばかり。この点、以前サンフランシスコでのゲネプロ(有料リハーサル)もそうだった。日本でも若者は少ないが、ここまで極端ではないような気がする。
 ムジークフェラインは、古いせいか、前後の座席間隔が信じられないくらい狭く、ロビーもないに等しい。が、音響は絶品だ。開演前、早めに一人で登場した打楽器奏者がティンパニを軽く一打ちしただけで、二階正面の小生のところまでズーンと響く。尺八やヴァイオリンのように、木造のホールというものも、時間と共に熟成してゆくのではなかろうか(ただし、この点では日本のホールは絶望的。理由は消防法による規制だけではないような・・・)。ヨーロッパ各地のオペラ・ハウスにも同じことが言えると思う。ただし、尺八(特に本曲など)は、音と音の間の(無音の)間が大切なので、響きすぎると(残響が長くなり)じれる程、音が止まり、消えるのを待たなければならないのだが・・・。
帰路、『展覧会の絵』の熱演の余韻を耳に残しながら、運河沿いのレストランへ。結局テイクアウト兼用のような中華の店へ。世界中どこにでもある中華レストランには、いつも助かる。例外は中国大陸の「中華」か?広東を除いて、時にすごく甘かったり、カルチャー・ショックを受けるような不思議な味もある。あれだけ広い国ゆえ、われわれがまだ知らない味付けもたくさんあるのだろう。不思議な?味というのは、ある日突然、病みつきになったり、ハマったりもする。日本の「くさや」や「からすみ」、ヨーロッパの、「ブルー・チーズ」などいい例だ。

   六日目
七日(土)は、午後三時から,繁華街にあるシュテファン教会のそばにある「仏教センター」で、最後の演奏会。ここも、下見をしておいて正解だった。スエーデン・プラッツという今まで行かなかった繁華街の方から歩いてみたが、初見ではきっと通り過ぎていただろう。予定していた曲目は以下の通り。  

1.虚空
2.霧海じ
3.明暗真法流 真之虚鈴
4.虚鈴
5.奥州伝 鶴の巣籠    

 二階の座禅会場に入った途端、「氣」が満ち満ちているのを感じる。この、ビルの二階の細長い空間には曹洞宗の老師が常在し、熱心に座禅を指導しておられるという。ここでは、エンタテインメントも多くの曲も要らないことがわかる。そこで真法流の「真之虚鈴」を止め、また「奥州伝の巣籠」も(かなり長いので)、定番の巣籠に差し替えた。そして「虚空」を最後にもってきたのだが、その後半あたりでエネルギーが尽きかけ、トークも散漫になってきた。何とか乗り切ったものの、疲労困憊、冷や汗ものだった(少しずつ疲れが溜まってきていたのか、あるいは歳のせいか?)。

さて、しばらく昔話にお付き合いいただきたい。
一九七二年、筆者は大学を出てザルツブルグの語学学校の夏季講習に参加した。この時期には有名な音楽祭があり、学割で数百円で聴けた。朝や日中のドイツ語の授業より、夜の音楽祭に備える日々だった。カラヤン、ベーム、小沢征爾などの名だたる指揮者や、ウイーン・フィル、ベルリン・フィルなど文字通り世界最高のオーケストラを間近に見た。特に印象深かったのは、モーツアルテウムという現地の音大の二階ホールでのウイーン・フィルのモーツアルト(交響曲二十五番)だった。小さな舞台にオーケストラのフルメンバーが犇めいた。ケルテスというハンガリー人の振る指揮を、じっと目を閉じて聴いていると、まるで一挺のバイオリンで弾いているようだ。音程もリズムも完璧に揃っていた。世の中にこんなに美しいものがあるのかと思った。格安につき、目の前に大きな柱があった。これが、二人(もう一人は、金髪どじょうひげのミハエル・ヤノビッチというアメリカのマサチューセッツ工科大学の学生)の視界を遮った。両隣やまわりの人たちがニヤニヤ笑っているようだ。完全な運命共同体になったわれわれは、短パンにTシャツと、青の背広にピンクのシャツに派手な柄ネクタイという全く対照的な服装ながら、中休みも一緒にウロチョロしていた(なお、中堅から巨匠に成りかかっていたこの日の指揮者のケルテスは、翌年テルアビブの海で遊泳中、高波に浚われて亡くなった)。
結局、ザルツブルグには半年ほど滞在し、ウイーンにも何回か行った。二次大戦の銃弾の跡も生々しい当時のウイーン国立歌劇場は、学生席が二十円だった。嬉しくない?ことに当時の日本は発展途上国扱いで、学生には過激な割引があった。もちろん天井桟敷だが、開演間際に脱兎のごとく一階真正面の立見席に駆け下りる。もちろん違法だが、係員は半ば黙認していた。ただ地べたに座ると注意された。だから、われわれ(他にはジーンズ姿の若いアメリカの学生らがいた)は、幕が開くのを待って、すぐ座った。時に、数を頼んで最初から座った(係員のおじさんにとっては、嫌な悪がきだったことだろう)。
この国立歌劇場は、ウイーンの目抜き通りの一等地にある、というよりここを起点に賑やかな通りが始まるのだが、これとは別の、庶民的な『フォルクス・オパー』という場末の小さな劇場にも行った。その小じんまりした佇まいは、何世紀か前のオペラのありようを彷彿とさせた。
別の折、巨大な体育館でのジャズも聴きに行った。トランペットのディジー・ガレスピー、ベースのチャーリー・ミンガス、ピアノのセロニアス・モンクなどいずれも単独で興行が打てるようなジャズの巨人たちが一同に会したので、矢も盾もたまらず(ザルツブルグから)来てしまった。日本を発つ前、私の興味は、西洋クラシック音楽からジャズに移りかかっていた。持っていたフレンチ・ホルンは、売られてヤマハのジャズ・ギターに換わり、訪欧の際、知り合いの盲学校の生徒に貸してきた。
ウイーンまでの、のんびり走るローカル列車のお伴は、決まってビールの小瓶数本と、サラダ油のツナ缶と、ばかでかいコーンの缶詰だった。ツナはさほど好きでもなかったが、「ドライ・ダイアメンテン(つまり三つの菱)」とある日本製だったので、愛国心を発揮した(当時、パリやハンブルク、アムステルダムなどの大きな街では、日本の五倍くらいの値段でインスタント・ラーメンを売っていたが、これも同じ理由でしばしば購入した)。

最後のオペラ
 今から十年ほど前、チェコやハンガリーに行く途中で、ウイーンには何泊かした。また、クロアチアへの乗り継ぎで、何時間もウイーンの待合室にいたとき、慶大美学の先輩でJ・S・バッハ研究で名高い樋口隆一氏と、何十年ぶりかで偶然再会したこともある。しかし、街でこれほどゆったり過ごしたのは初めてだし、ここでオペラを見るのは四十年振りだ。
すし詰め状態の一階立見席を尻目に、四階のベランダ個室の最前列をとった。ちょっとした贅沢だが、隣りのベランダ席にも日本人と思しきご高齢の男性がおられた。彼が途中で寝ているのが視界に入ったが、覚えているのはそこまでで、気がついたら自分も寝ていた。この日の三時からの自分の演奏の後では、やはり疲れが抜け切れていなかったようだ。家内が膝を叩いて起こしてくれたが、以後はボーっとしているうちに終わった。
演題はプッチーニの名作『ラ・ボエーム』。ここ数年、ローマやドレスデンなどで、車やテレビが登場するような、初演時には想像もつかなかったような、やけに現代風のオペラに辟易してきたので、今回のオーソドックスな演出には大満足だ。歌手も超一流。鍛えれば人間というものはこんなに凄い声が出せるのだ、と感嘆するばかり。伴奏がウイーン・フィルだから、その見事さは言を俟たない(惜しむらくは、東京で中古で買った同作のDVDソフトが途中で止まる不良品で、その先を予習できなかったことか)。
カーニバルの夜景の場面は、舞台が二層になり、総勢二百人にも及ぼうかという多くの人々が埋めた。この場面にとても魅せられ、昔自分がそこにいたような錯覚にとらわれる。「この光景をずっと見ていたいなあ」、としみじみ思いつつ、目に焼き付けた。
終演後の、ドレスやタキシードに身を包んだ、いかにも地元の名士然とした紳士淑女を横目に、熱演の余韻を噛みしめながら市電で四つ先のホテルへ。大層美しい尖塔を備えた教会を左に見て、落ち葉を革靴が踏む音を心地よく聞きながら歩を進める。毎晩見てきたホテルのネオン・サインが、今夜は一層輝いて見える。
もはや日課となった、ホテルのレストランの、赤尽くしの大ぶりで深々としたソファに身を沈め、取り止めのない話を家内とできる幸せを噛みしめながら、最後の夜を惜しんで飲むビールやワインの味は格別だった(と言わなければバチが当たるだろうか)。
 翌朝、ホテル前のベンツのタクシーをつかまえる。運転手が現地の人には見えなかったので、話しかけてみる。聞けばイラン・イラク戦争を避けて移住してきたという。高齢になってから、非母語圏に移り住まねばならないその苦労に思いを馳せる。「戦争は嫌だ」とハッキリいうその言葉の奥に潜んでいるであろう数々の悲劇や哀しみを、いちいち聞くことはなく、また聞いても実感をもって受け止めることはできないだろう。でも(だから?)、「せめて忘れてはなるまいと」心に刻む。
車は、冬になりかかりの、朝陽を浴びてキラキラ光る、真っ黄色の落葉樹の大通りを進む。すっかり打ち解けたように見える、五十代後半?と思しき運転手のおじさんの、大学に通っている娘さんの自慢話が出たところで、もう飛行場だ。ホンの気持ちチップを弾んで、この親子の幸せを願う。
便を待つ間、成田目ざしてロビーのあちこちに日本人が集い、すでに「日本」だ。暫く離れていた、日本語だらけの環境に久し振りに浸ってみると、日本語そのものが、チョッピリ新鮮で、石川啄木の「ふるさとの訛りなつかし停車場の・・・」的に迫っても来る。こんな風に、自動的にほとんど全部の音を聞き取れ、その意味を把握できてしまうという、「当たり前だが驚異の能力」を獲得するために、われわれは、「誕生以来のいかに膨大な時間を費やしてきたのか」という日ごろは忘れている、あまりにも当たり前の事実に驚く。
飛行場での、いつも通りのたくさんの日本語に囲まれた世界は、否応なしに旅の終わりの鐘を告げる。「せめて、あと少しだけ旅の余韻に浸ろう」と目を閉じると、そのまま眠りに墜ちた。

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